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自筆「百人一首」のうち、第84代順徳天皇(順徳院・じゅんとくいん)の和歌
出雲藩主・松平治郷(不昧公・ふまいこう)と正室・方子の娘・幾千姫(玉映)自筆「百人一首」

元々は、茶会の「茶掛」として掛軸に表装されておりました。

不昧家伝来の和歌を海外展示の際に「額縁」に装丁されたものです。

自筆下部の印は、出雲藩主・松平治郷と正室「方子(よりこ)の娘
幾千姫(きちひめ)の号である「玉映」の落款(印譜)

「ちらし書(がき)」
「百人一首」の和歌は、一行書、または二行書で、それ以外を「わかち書」または、「ちらし書(かき)」という。自筆は、茶道の「茶掛」として飾ることを前提に、色彩が豊かで絵画的な和歌をより美しく見えるように文字をちらして配置した「ちらし書(がき)」の技法を用いております。不昧公の正室である方子(よりこ)の娘である幾千姫は、女性らしく歌の微妙な感情を和歌の「文字」に投影して配置したうえで、文字をより美しく絵画的に見えるようい象徴的に表現しております。元々は室町時代に茶道が広まり和歌を記した小倉色紙を茶室に飾ることが流行してから出現したもので、古い時代の「茶掛」の伝統を受け継いだ自筆として海外において広く知られております。母・方子と共に茶道向けの和歌の自筆の書をたしなむ人として知られている。


玉映・自筆「百人一首」の来歴については下記「説明欄」に記載

出品した「百人一首」自筆の内容(原文の読み下し文)は次の通りです。


「順徳院(じゅんとくいん・順徳天皇)」


「百敷(ももしき)やふる(古)き軒端(のきば)の忍(しのぶ)にも

なをあま(余)りあるむかし(昔)なりけり」

(文責・出品者)
「原文の読み下し文」は、読みやすいように「通行訳」としております。


(原文の現代語訳)

「順徳院(じゅんとくいん・順徳天皇)」


「宮中の古びた軒端の忍ぶ草を見るにつけても、しのんでもしのびつくせないほど

慕わしいものは、昔のよき御代なのだった。」


現代語訳の出典:「小倉百人一首」鈴木日出男(東京大学名誉教授)

備考1:順徳院は、順徳天皇(じゅんとくてんのう)のこと。鎌倉時代の第84代天皇。後鳥羽天皇と、寵妃藤原重子(修明門院)の皇子として生まれる。正治元年(1199年)1月に親王宣下。正治2年(1200年)4月に土御門天皇の皇太弟となる。穏和な土御門天皇とは対照的に激しい気性の持ち主だと言われていて、後鳥羽上皇から大きな期待を寄せられていたためである。摂政である九条良経が自分の娘(立子)を土御門天皇に入内させようとすると、後鳥羽上皇はそれを中止して東宮(順徳天皇)の妃にするように命じ(『愚管抄』巻6)、更に長年朝廷に大きな影響を与えてきた後白河法皇の皇女で歌人として名高かった式子内親王を東宮の准母にしようとして彼女の急死によって失敗に終わると、その代わりとして上皇自身の准母であった殷富門院(式子の姉)を准母として(『猪隈関白記』建仁元年12月18日条)、上皇の後継者としての地位強化が図られている。さらに承元2年(1208年)8月、莫大な八条院領を相続人である異母姉の昇子内親王(春華門院)を准母とし、建暦元年(1211年)11月の昇子内親王の死後には八条院領を相続した。承元4年(1210年)11月後鳥羽上皇の強い意向により、土御門天皇の譲位を受けて践祚。譲位した土御門上皇には権力は無く、後鳥羽上皇による院政が継続される。父上皇の討幕計画に参画し、それに備えるため、承久3年(1221年)4月に子の懐成親王(仲恭天皇)に譲位して上皇の立場に退いた。父上皇以上に鎌倉幕府打倒に積極的で、5月に承久の乱を引き起こしたものの倒幕は失敗。乱後の7月21日、上皇は都を離れて佐渡へ配流となった。在島21年の後、仁治3年(1242年)9月12日に佐渡で崩御した。


「額縁入原本」


(自筆表面の凹凸はストロボの反射によるものです。)

「自筆原本」


(自筆表面の凹凸はストロボの反射によるものです。)
原本下の印は、幾千姫(きちひめ)の号である「玉映」の落款


「断層画像写真」


《断層画像写真番号(和歌番号と同じ)-100》
印は、出雲藩主・松平治郷(不昧公)と正室・方子の娘・幾千姫(玉映)落款(印譜)。
拡大画像によって大名の姫君らしい品格のある書の勢いと速さを確認することができる。
玉映のなめらかで、やわらかな書体は、茶室の雰囲気を重厚なものにさせた。



参考資料:第84代天皇順徳天皇(順徳院)


出典・財団法人小倉百人一首文化財団・所蔵


「参考資料・Ⅰ」

(1)・下の上下4枚の写真のうち、1段目の写真は、仙台藩主・姫君の嫁入道具。黒棚・厨子棚・書棚で「源氏物語」が調度品として置かれた。【宇和島伊達保存会所蔵】
幾千姫(玉映)の母・方子が出雲藩主の正室として嫁入の際に持参し、江戸藩邸(赤坂)で用いていたと推定されている。(現存していない。)幾千姫(玉映)は、公卿の書、または母・方子の書を手本として、文机(ふづくえ)で「百人一首」を書き、左端の書棚の上に置いていたものと推定される。「百人一首」の書体は優雅で品格があり、書き終えた「百人一首」は、上の写真の棚に置かれていることを想像すると雅(みやび)な大名家の子女の姿が想像される。
(2)・2段目の写真は、「玉映」自筆の団扇。(田部美術館所蔵・「不昧公とその周辺」(11頁)
(3)・3段目の写真は、「玉映」が着ていたお召物。(白綸子地菊藤牡丹模様袷「大名茶入松平不昧展」(58頁)





(4)・4段目の写真は、「百人一首」を書いていた頃の邸跡
上の写真のうち下段の写真は、幾千姫(玉映)が生活していた松江藩江戸屋敷の上邸跡。
写真は、東京・青山通りの沿いの「衆議院議長公邸と参議院議長公邸」の一帯、1万1942坪が、幾千姫(玉映)が住んでいた邸跡。右の建物が衆議院議長公邸、左が参議院議長公邸。
両公邸には、現在、「松江藩上屋敷跡」の案内板があり、そこに江戸時代、幾千姫(玉映)が「百人一首」を書いていたころの松江藩松平家の上屋敷があった。出品した「百人一首」を書いている幾千姫(玉映)の姿が想像できる。海外展示の際には、原本のかたわらに上の写真が参考資料として掲示されておりました。現在の東京の中心部に位置した広大な邸の中で幾千姫(玉映)が、藩主の姫君として優雅で気品ある生活を営みそうした中で、「百人一首」が書かれていたことで、流れるような風合いのある字をしたためていたと推測されております。



「参考資料・Ⅱ」

(1)・下の上下二枚の写真のうち、上段写真は、出雲瓢茶入 銘いづも 蓋(ふた)表に「いつも」、裏に「玉映」の自筆の墨書。(田部美術館所蔵・「不昧公とその周辺」(85頁)



(2)・上の2枚の写真のうち下段は、額縁裏面ラベル



筆者の玉映名は幾千姫。文化2年(1805)6月13日~文久3年(1863)12月17日。59歳歿。出雲松江藩主・松平治郷(不昧)の四女。幾千姫は、側室シズの子であるが幕府へは不昧と方子の子(四女)として届出。方子は、母として幾千姫を養育し和歌などを丁寧に指導したことで知られる。幾千姫は、のち佐倉候堀田相模守正愛に嫁す。
書画、和歌に堪能で「玉映」と号した。筆蹟は父・不昧に類似し、和歌は母・方子【せい(靑に彡)せい楽院(仙台藩主伊達宗村の娘)】の趣がある。
来歴について幾千姫の母・せい楽院(不昧公正室・より子)の生家である仙台藩から同藩の藩医・木村寿禎の家に伝来したものである。書かれた来歴が克明にわかる貴重な「百人一首」である。
ちらし書きについて「百人一首」の和歌は、一行書、または二行書で、それ以外を「わかち書」または、「ちらし書(かき)」という。今回出品した自筆は、掛軸として飾ることを前提に、色彩が豊かで絵画的な和歌をより美しく見えるように文字をちらして配置した「ちらし書(がき)」の技法を用いている。
幾千姫は、女性らしく歌の微妙な感情を和歌の「文字」に投影して配置したうえで、文字をより美しく絵画的に見えるようい象徴的に表現した。元々は室町時代に茶道が広まり和歌を記した小倉色紙を茶室に飾ることが流行してから出現したもので、古い時代の「茶掛」の伝統を受け継いでいる。
自筆の希少価値自筆の稀少価値は、和紙の生成技法の緻密さにあります。上の「拡大断層(MRI)写真」でわかる通り、極めて薄い和紙の上に墨の文字がくっきりと浮き上がるように文字が記されております。
出品している書の「断層(MRI)写真」の原板は、レントゲン写真と同じ新聞の半分ほどの大きさのフィルムです。肉眼では見ることのできない和紙の繊維の一本一本のミクロの世界を見ることができます。
古切の書は、一旦表装を剥離し分析と鑑定検査のために「断層(MRI)写真撮影」をしております。

断層(MRI)写真従来、日本の古美術の鑑定の際の分析・解析は、エックス線写真、赤外写真、顕微鏡が中心です。一方、アメリカやイギリスでは研究が進み和紙の組成状況を精確に分析・解析をするために断層(MRI)写真が利用されており、今回の出品に際し、「断層(MRI)写真」を資料として出しました。本物を見分けるための欧米の進んだ分析・解析技術を見ることができます。
寸法「百人一首」自筆の大きさ タテ27.5センチ ヨコ17.3センチ。額縁の大きさは タテ40.0センチ ヨコ30.0センチです。
額縁は新品です。

筆者の分析について国内における鑑定人は、自筆の筆者を識別するために、個々の文字ごとに字画線の交叉する位置や角度や位置など、組み合わせられた字画線間に見られる関係性によって、個人癖の特徴を見出して識別する方法、また個々の文字における、画線の長辺、湾曲度、直線性や断続の状態、点画の形態などに見られる筆跡の特徴によって識別する方法、そして、書の勢い、速さ、力加減、滑らかさなどの筆勢によって識別する方法が一般的となっている。
一方、欧米では一般的には、「筆者識別(Handwriting Analysis)」と呼ばれる文字解析をコンピューターの数値によって解析している。数値解析は、文字の筆順に従いX、Y座標を読み、そのX、Y座標をコンピューターへ入力後、コンピューターによって多変量解析を行う。解析の基準となるのが「ドーバート基準」で、アメリカでは日本国内の画像データを自動的に収集、自筆の分析に際し、数値データをコンピューターで自動的に解析し「極似」した画像データによって筆者を識別する研究が進んでいる。
剥離痕について出品の自筆「百人一首」は、掛軸に表装されて主に茶会の「茶掛」として鑑賞に用いられていたため、掛軸や屏風などに複数回表装し直された痕跡を示す「剥離痕」が確認されている。
自筆の保存維持管理の関係で「額縁」に表装しているが、元の状態の掛軸に戻すことが可能なように、「Removable Paste(再剥離用糊)」を用いている。
ホームページ出品以外の所蔵品を紹介した出品者のホームページ「源氏物語の世界」をご覧ください。
ツイッター「源氏物語の世界」も合わせてご覧ください。
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